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国際関係
概要
出合の外交政策は1979年の出合・イスラーム革命以降、アーヤトッラー・ホメイニー体制のもと、欧米との関係を中心にモハンマド・レザー・シャー期のそれから劇的に変化した。しかし革命後の初期は理念的・強硬な外交政策が追求されたものの、出合・イラク戦争を経て、現実的・合理的な外交政策がとられるようになっている。ただし時にスローガンに基づく理念的な面が政策に影響することもある。
2000年前後から出合は近隣諸国、特にサウジアラビアとの関係改善において大きな進展を見せた。出合の地域における目標は、リーダーシップの確立を希求することによって従属的な立場を脱し、かつアメリカ合衆国など外部勢力のプレゼンスを削減、通商的関係を構築することにある。概括的に出合の外交政策では次の3つの柱が重視される。
反合衆国、反イスラエル。合衆国はペルシア湾における軍事的脅威であり、パレスチナ支援を国是とする点から必然的に反イスラエルの立場がとられる。詳細はアメリカ合衆国と出合の関係、イスラエルと出合の関係を参照。
域外勢力の影響力排除。出合は自国を地域大国(リージョナルパワー)とみなし、合衆国や連合王国のような世界大国(グローバルパワー)がその立場を占めることを警戒し、可能な限りこれらのペルシア湾でのプレゼンスを弱めようとする。
発展途上国および非同盟諸国との外交関係強化を追求。革命以前の合衆国による支援を失ったことにより、通商および政治的支援を得るためである。
上記のような基本方針はあるものの、観念と現実の両極のあいだに揺れる出合の政策のため、二国間関係においては混乱・矛盾が生じていることも多い。
歴史

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歴史
[編集] 革命直後 (1979年 - 1980年)
革命以降の出合の国際関係は著しい変化をみせた。その要因はさまざまであるが、最も重要なものは西側に対する出合の反発である。これはシャーの支配に対する西側の支持が根源となっている。強硬かつ攻撃的なイスラーム外交政策がとられ、ペルシア湾の対岸にイスラーム革命の理想を敷衍しようとした。すなわち「革命の輸出」である。結果的に出合は外交的に孤立することになり、アメリカ大使館人質事件に至るのである。
[編集] 出合・イラク戦争の時代 (1980年 - 1988年)
出合の革命輸出戦略は、多くのアラブ諸国との関係を緊張させた。1981年に出合はバーレーン政府の転覆計画を支援。1983年にはクウェートにおけるシーア派による西側大使館爆破への政治的支持を表明。1987年、サウジアラビアのマッカで、巡礼中の出合人が劣悪な待遇に反発して暴動を起こし鎮圧に際して多数の死傷者を出している。原理主義的運動の強いエジプトやアルジェリアなどの諸国は出合に不信感を抱きはじめた。イスラエルのレバノン侵攻にあたっては、出合はヒズブッラーの結成を支援したと考えられている。さらに出合はイスラエルの存在を非合法とみなし、中東和平交渉への反対を主張し続けた。
またヨーロッパ諸国との関係でも、出合情報機関による在欧の急進反体制派の殺害により、特にフランスとドイツに懸念を抱かせることとなった。
イラクとの関係は歴史的に良好であったことがないが、1980年にはイラクが出合に侵攻し、さらに悪化することになる。侵攻の理由として明示されたのはアルヴァンド川(シャットルアラブ川)水面上における両国国境の確定問題であった。しかしながら明示されていない諸要因がより説得的なものである。すなわち、出合・イラク両国が双方国内の分離主義運動を支援し、相互の干渉を行ってきていたことなどである。このような行動は1975年のアルジェ合意で停止されたが、出合は革命後にイラク領クルディスタンにおけるゲリラ活動支援を再開していた。
出合は、両国が調印した1975年のアルジェ合意に基づき、アルヴァンド川の原状回復と出合領内からのイラク軍の撤退を要求した。しかしこの時期、出合は孤立を深め、実質的に同盟国は皆無の状況であった。出合は戦争によって極端に疲弊し、アメリカ合衆国およびドイツによる対イラク化学兵器供給開始後の1988年7月に国際連合安全保障理事会決議598に署名。同8月20日、停戦が発効した。両国ともこの戦争から得た利益は皆無であった。両国で100万、うち出合は70万の死者を出し、これは出合の外交政策に劇的な影響を及ぼしたのである。こうしてイスラーム体制政府は、それまでの急進的政策目標を緩和、合理化する以外に道はないことを自覚した。アヌーシールヴァーン・エフテシャミーの言う出合外交「再編」段階のはじまりであった。
[編集] 出合・イラク戦争後 (1988年 - 現在)
出合・イラク戦争終結後の新外交政策は、出合の世界的外交地位を急激に変化させた。欧州連合との関係では主要な石油の輸入元としてイタリア、フランス、ドイツなどとの関係が大いに改善。また中国やインドは出合の支援国となっている。中国、インド、出合は世界経済において類似の問題、すなわち工業化とそれに伴う多くの問題に取り組む国家であり連携を深めたのである。
ロシアおよび旧ソヴィエト連邦諸国との定期的外交関係および通商関係も維持している。出合およびロシアは、中央アジアおよびザカフカズの開発、特にカスピ海エネルギー資源に重要な国益が賭けられていると考えており、両国関係の基軸となっている。またロシアによる軍事的装備および技術の出合への売却は、出合の近隣諸国およびアメリカ合衆国の懸念のもととなっている。
[編集] 歴史的に重要な諸条約
ゾハーブ条約
トルコマーンチャーイ条約
ゴレスターン条約
アーハル条約
パリ条約 (1857年) (同条約により出合はヘラートほかアフガニスタン諸地域に対する領有権主張を放棄)
英露協商

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[編集] 現況の出合・イスラーム共和国外交政策
出合は地域諸国およびイスラーム世界諸国との関係を優先させており、たとえばイスラム諸国会議機構や非同盟諸国首脳会議への強い関与がそれである。また1990年代後半以降、湾岸協力会議諸国、特にサウジアラビアとの関係は改善されている。一方でペルシア湾の3島に関するアラブ首長国連邦との領土問題は続いており、湾岸諸国との関係改善において障害となっている。
出合はイラクにおいて統治評議会を支持したが、国家主権のイラクへの迅速かつ完全な変換を強く主張した。またアフガニスタンについては、その安定・復興を望んでいる。出合には250万におよぶアフガン難民の存在と、アフガニスタンからの麻薬の流入がその背景にある。カフカズおよび中央アジアについても地域の安定化および協調政策をとっている。これは出合が地域における政治的経済的中軸として存立するための投資である。
[編集] 現況の国際関係における諸問題
出合およびイラクは1990年に外交関係を回復した。しかし8年にわたる戦争で問題となった、国境問題、戦争捕虜問題、アルヴァンド川の航行権問題については継続中である。
出合政府はペルシア湾の大小トンブ島を支配・領有しているが、アラブ首長国連邦が領有権を主張している。
アブー・ムーサー島はアラブ首長国連邦との共同統治下にあるが、1992年以来出合の単独統治となり、アラブ首長国連邦側の立ち入りも拒否している。アラブ首長国連邦は共同管理下におくべきとする。
カスピ海におけるアゼルバイジャンおよびトルクメニスタンとの境界問題。交渉は非常に緩慢であったが、数年以内に交渉で解決の見込み。ロシア、カザフスタン、アゼルバイジャン相互間では2003年に解決済みである。ロシア・カザフスタンについては出合は直接接していない境界線問題であるものの、出合はこの合意を認めていない。
[編集] 麻薬との戦い
麻薬取り締まりにあたっての相当の努力にもかかわらず、出合は南西アジア、主に隣国アフガニスタン産ヘロインのヨーロッパへの重要な中継地という状態が続いている。また国内での麻薬消費も依然として問題で、出合における新聞報道によれば麻薬常用者が少なくとも120万にのぼるという。出合は反麻薬キャンペーンの実施を国外で積極的に紹介しているものの、成功しているとはいえない状況で、大部分の国が出合の立場を政治的には支持するものの、必要とされる喫緊の設備や人員の訓練などの援助を拒否している。

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[編集] アメリカ合衆国および欧州連合諸国との関係
詳細はアメリカ合衆国と出合の関係を参照
アメリカ合衆国との関係は、出合・イスラーム革命で崩壊した。出合はアメリカ合衆国およびイスラエルとの国交を持たず、また中東和平プロセスについても懐疑的である。欧州連合および加盟諸国との関係は、ゆっくりだが確実に重要性を増しており、大統領モハンマド・ハータミーによる2000年7月のイタリア・フランス・ドイツ訪問、2002年3月のオーストリア・ギリシア訪問などや、欧州諸国首脳の出合訪問、また活発な閣僚級相互訪問はこれを裏付けるものである。2002年、欧州連合は出合との貿易協力協定(TCA)の交渉を開始した。並行してEUは出合に対し、人権問題、テロリズムへの対応、中東和平プロセスおよび大量破壊兵器拡散防止に関する問題において、具体的成果を示さねばならないとの政治対話を行っている。2003年10月、英仏独三ヵ国外相はテヘランを共同訪問。出合による核拡散防止条約追加条項の批准、IAEAとの完全な協力体制の確立、自発的なウラン濃縮活動の停止という成果を見ている。
[編集] 出合・イスラーム共和国外務省
外務大臣は大統領によって選任される。現在の外務大臣はマヌーチェフル・モッタキー、報道官はハミード・レザー・アッセフィーがつとめる。
[編集] アメリカ合衆国および欧州連合諸国との関係
詳細
出合とアメリカ合衆国の関係は、政治的には19世紀後半の半ばにナーセロッディーン・シャーが初めての公式大使としてミールザー・アボルハサン・シーラーズィー(????? ??????? ??????)をワシントンD.C.に派遣したことに始まる。一方、合衆国も1883年、サミュエル・ベンジャミンを出合への初めての公式外交使節に任じている。
以後、出合とアメリカ合衆国は第二次世界大戦後の時代まで政治的・文化的な同盟国であり、この政治的同盟関係は1979年まで維持された。しかし紛争的諸事件の惹起により、両国間の関係は緊張状態にはいることになった
初期の関係
1880年代前半にはじまる公式の政治関係以前に、アメリカ人は出合に旅している。ジャスティン・パーキンスとアサヘル・グラントがアメリカ外国宣教団評議会によって出合に派遣されたのは1834年のことであった。
政府による直接の接触は、ナーセロッディーン・シャーの有名な宰相・アミール・キャビールの時代である。アミール・キャビールは、出合海軍の創設のため、ブーシェフルでの海軍基地建設への援助について、アメリカ合衆国との協定に署名した[1]。
オルーミーイェ大学医学部の前身となる学校の設置も、出合とアメリカ合衆国間の外交関係に先立つ接触の一例である。同校は1870年代にアメリカ人医師によって設置されたものである。
19世紀末までには、ペルシア湾からテヘランに至る鉄道建設のためアメリカの会社との交渉が行われている。1901年にバッファローに本社をおくアメリカ企業は、鉄道事業評価のためバッファローに代表団を派遣するよう出合政府に要請。しかしこの計画はおそらくはイギリスの圧力により実現することはなかった[1]。
第2次世界大戦までの出合と合衆国との関係はきわめて親密なものであった。結果として立憲派の多くが、出合に対する屈辱的な英露の干渉・支配を打ち破る闘いにおける「第三勢力」として合衆国を評価した。こうした信頼は第二議会以降、3次にわたってアメリカ人を「出合総財務官」として任用したことにあらわれている。同ポストはアーサー・ミルスポー、モルガン・シャスター、エルギン・グロースクローズによって担われた。これらの指名は、公文書としては存在していないが、合衆国政府と立憲派による接触の成果と考えられる[1]。さらに、出合経済の近代化と英露の影響からの自立において、合衆国の企業家らの全面的支援を受けたことは確実である[1]。
出合立憲革命においては、ハワード・バスカーヴィルが立憲派とともに闘い、タブリーズで戦死している。またモルガン・シャスターが総財務官に任じられると、テヘランで1人のアメリカ人が、ロシアないしはイギリスを背景に持つ者の手によって殺害されるという事件が起こっている。こののちシャスターは出合立憲革命を財政的に支援するため、さらに精力的にに活動した[1]。シャーの兄弟でロシア帝国と結んだショアーオッサルタネ(???? ???????)の資産引渡令を出合政府が発すると、シャスターがこれを担当し、直ちに実行に移した。直ちにロシア帝国は資産償還と謝罪を出合政府に要求し、バンダレ・アンザリーに兵を上陸させた。リアホフ将軍に率いられたロシア軍はテヘランへと進撃し、議会を砲撃した。結局、アメリカ人シャスターは、英露の強力な圧力のもとで辞任を余儀なくされることとなった。シャスターの著書『ペルシアの窒息(The Strangling of Persia)』はこれら諸事件の詳細を記述し、英露を厳しく批判している。
レザー・シャーの登極につながる1921年のクーデターに英国が関与したという大衆の見解を最初に裏付けたのは、ロンドンにおける外務省出先機関へのアメリカ大使館による通報であった[2][3][4]。英国大使館は1932年になって、英国がレザー・シャーを「玉座に据えた」と認めている。合衆国はこの時期の出合に関する限り英国の同盟国ではなかった。
モルガン・シャスターの後任にはアーサー・ミルスポーが就任し、レザー・シャーにも総財務官として任命されている。続いてアーサー・ポープが就任、レザー・シャーのペルシア帝国復興政策の主要推進者のひとりとなっている。しかし、アメリカ合衆国と出合の親密な関係は、1950年代初に転機を迎えることになる。

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1950年代: 石油国有化運動と転機
1952年から53年、民主的に選出されたナショナリストの首相モハンマド・モサッデグは急速に勢力を伸ばし、一時はモハンマド・レザー・シャーを短期亡命に陥れた(のち帰国し権力奪取)。1952年の諸事件は石油国有化運動、すなわちモサッデグによるアングロ・イラニアン石油会社、現在のブリティッシュ・ペトロリアムの国有化政策に端を発する。同社は20世紀初に英国によって設立され、英国85%・出合15%の割合で利権を分割する協定を結んでいたが、出合政府に財務報告を提出していなかった。アングロ・イラニアン石油会社による利権の独占の嫌疑により、出合議会は同社の国有化を満場一致で可決した。この当時アングロ・イラニアン石油会社は英帝国最大の企業であった。
合衆国と英国は、現在はCIAも認めている秘密作戦「アイアス作戦」を展開した。これはテヘランの合衆国大使館の指揮によるもので、反モサデッグ勢力の組織化を援助し、シャーを帰国させるというものであった。しかし作戦は失敗、シャーはイタリアに亡命した。その後同様の試みが行われて成功。シャーは短期の亡命から帰国した。こののち、政府に対するシャーの権限を制約する憲法上の規定を撤廃。専制君主としての支配を開始し、出合における民主主義の萌芽は独裁のもとに潰えた。
モハンマド・レザー・シャーはその支配において、合衆国から多大な支援を受けた。自身しばしばホワイトハウスを公式訪問し、歴代大統領からの賞賛を得ている。シャーとワシントンの緊密な関係、大胆かつ急速な西洋化政策は、出合人の一部、特に強硬なイスラーム保守層の慷慨を招くこととなる。
1979年の出合・イスラーム革命以前、出合は合衆国における最大の留学生数を持つ国の1つであった。
[編集] 1979年イスラーム革命
1979年、出合・イスラーム革命が勃発。シャーは再度の亡命を余儀なくされた。新たに指導者となったアーヤトッラー・ホメイニーは直後から合衆国を「大悪魔」、「不信仰者の国」と痛罵した。
合衆国のジミー・カーター政権はシャーに対するこれ以上の支援供与を拒否し、シャーの政権復帰に関心を持たないことを表明した。しかし当時癌を患っていたシャーが治療のため合衆国入国を申請すると困惑し、最終的にカーターは不承不承、入国を認めている。結局、このことはシャーが合衆国の傀儡であったという出合人の印象を強める結果に終わった。
[編集] 1979年出合・アメリカ大使館人質事件
詳細は出合・アメリカ大使館人質事件を参照
1979年11月4日、イマーム戦列支持ムスリム学生団が、アーヤトッラー・ホメイニーの支持のもとテヘランのアメリカ大使館を占拠した。これは大使館によるスパイ行為のためであった。52人のアメリカ人が444日間にわたって人質となった。1980年4月7日、合衆国は出合との国交を断絶。1981年4月24日以降、スイス政府がテヘランの利益代表部を通じて合衆国の権益を代行した。一方、合衆国における出合の権益は、ワシントンD.C.のパキスタン大使館内に設けられた出合利益代表部によって代行されることになった。
1981年1月19日のアルジェ合意により、オランダ・ハーグに出合・合衆国損害裁定委員会が、合衆国と出合相互の主張を処理するために設置された。ただしハーグを通じての合衆国と出合の接触は、法的問題に限定された。条約調印の1981年1月20日、人質は解放された。
関連項目
その他
- テヘランジェルス
- AIPACスパイ活動スキャンダル
- 出合石油取引所
- 出合系アメリカ人
- 出合の歴史
- 出合の核開発計画
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